気付いたらレディースのコーナーにいる
服屋に行くと、知らないうちにレディースのコーナーに迷い込んでいることがある。
3人ほどの女性に囲まれて、ようやく自分のいる場所がレディースなのだと気付く。
どうりで、どの服もピンと来ない。
メンズを探してフロアを往来する。
こういうことが服屋に行くとよくある。
誰にもバレてないだろうけど、けっこう恥ずかしい。
頼む!もっと分かりやすくしてくれ!と思うけど、
男=ブルー、女=ピンクみたいに「色」と性別を結びつけるのも、
女=スカートみたいに「服の形」を結びつけるのも、
どれも短絡的な着地だな〜と思い、いいアイデアが浮かばない。
世の中あらゆるものが「勘が鋭い人」向けに作られていると思う。
「勉強しなくても何となくわかる」という人に優しい。
前述のように「服屋で自分のほしい服が置いてある場所」をなんとなく探すことは私にとって難しいことだ。
服を探すのにちょっと時間がかかるだけで、人に相談するほどでもない苦手なものである。
そのほかにも「言葉の目線を意識しながら話すこと」がとても苦手だ。
よく「なんだその言葉遣い!上から目線だぞ!」と指摘される。
しかし、そもそも他人から自分に向けられている言葉が「上から目線」なのか、「下から目線」なのか、まったく分からない。
こういうのは、親の愛を感じたことのない人が子供にどう愛情を注いでいいか分からない、みたいなのに似た感覚だと勝手に思っている。
一度そんなことを人に話したら「一緒にするんじゃない!」と怒られたことがあるのでもう大きな声では言わないようにしている。
人に相談するほどでもない苦手なもの、誰にでも一つくらいあってほしい。
どこもかしこもクラウンドファンディング
どこもかしこもクラウドファンディングだ。
時節柄どうしようもないことだけど「みんなで乗り切るために支援お願いします!」というのが多い。
どの案件も支援していない。
なぜ気持ちが乗らないのか、ということをしばらく考えていた。
そもそもクラウドファンディングがそんなに好きじゃない。
達成する目的に「公的」な要素があるか、という部分が気になってしまう。
不特定多数な人へ門戸を開いて出資を募るプロジェクトである理由が欲しい。
例えば、「視野を広げるために世界一周旅行の資金を集めたい!」みたいなのは論外で、「お前、旅行に行きたいだけだろ!」と言いたくなる。
「文化資産のWebアーカイブのための費用」とか、達成されたことによるメリットが誰でも享受できる、というのが一番しっくりくる。「最新テクノロジーを使った便利グッズの開発」も許せる。
沢山の人に意義のあることだけど資金面の問題だけ解決できない…というときにクラウドファンディングは手段として適切だと思う。
どうしてわざわざクラウドファンディングにするのか。グッズを売るじゃダメなのか。
(※余談。映画「この世界の片隅に」にまつわるエピソードで、製作時なかなか出資者を見つけられず、クラウドファンディングの達成実績を材料に出資者を説得とした、という話を見かけたけど、コレはかなり頭のいい使い方だと思う。)
ただ「公的」な要素が強すぎると、それは税金でやってほしい。
少し話が逸れるが、ココ2〜3ヶ月、公的に解決しなくてはいけない問題なのに、「市民の皆さんの助け合いや互助の精神で何とかしてくださいね」というメッセージを発信されていて、かなり理解に苦しんでいる。
公的機関が役割を放棄して、すべてを市場原理で解決させようとする現状は辛い。
「資金が集まらなくて、何かが無くなることは私達がお金を出さなかったから」とされてしまうのは問題のすり替えだなと思う。
クラウドファンディングがそもそも好きじゃない、という話に戻る。
プロジェクトを達成したときの肯定感は、おそらくかなりのモノで、それが今の時代にも合っているんだと思う。
しかし自分には、世界に愛されているかどうかを問う行為そのものが、とても怖いものに思える。
高校の同級生の女子がクラウドファンディングで写真集を作ろうとしている。
下着姿もある写真集らしい。現在、26%しか達成していない。
私が支援しないで誰が支援するというのだ!
これは、意義深いとかそういうのは関係なく、怖いもの見たさだなと思う。