どこもかしこもクラウンドファンディング
どこもかしこもクラウドファンディングだ。
時節柄どうしようもないことだけど「みんなで乗り切るために支援お願いします!」というのが多い。
どの案件も支援していない。
なぜ気持ちが乗らないのか、ということをしばらく考えていた。
そもそもクラウドファンディングがそんなに好きじゃない。
達成する目的に「公的」な要素があるか、という部分が気になってしまう。
不特定多数な人へ門戸を開いて出資を募るプロジェクトである理由が欲しい。
例えば、「視野を広げるために世界一周旅行の資金を集めたい!」みたいなのは論外で、「お前、旅行に行きたいだけだろ!」と言いたくなる。
「文化資産のWebアーカイブのための費用」とか、達成されたことによるメリットが誰でも享受できる、というのが一番しっくりくる。「最新テクノロジーを使った便利グッズの開発」も許せる。
沢山の人に意義のあることだけど資金面の問題だけ解決できない…というときにクラウドファンディングは手段として適切だと思う。
どうしてわざわざクラウドファンディングにするのか。グッズを売るじゃダメなのか。
(※余談。映画「この世界の片隅に」にまつわるエピソードで、製作時なかなか出資者を見つけられず、クラウドファンディングの達成実績を材料に出資者を説得とした、という話を見かけたけど、コレはかなり頭のいい使い方だと思う。)
ただ「公的」な要素が強すぎると、それは税金でやってほしい。
少し話が逸れるが、ココ2〜3ヶ月、公的に解決しなくてはいけない問題なのに、「市民の皆さんの助け合いや互助の精神で何とかしてくださいね」というメッセージを発信されていて、かなり理解に苦しんでいる。
公的機関が役割を放棄して、すべてを市場原理で解決させようとする現状は辛い。
「資金が集まらなくて、何かが無くなることは私達がお金を出さなかったから」とされてしまうのは問題のすり替えだなと思う。
クラウドファンディングがそもそも好きじゃない、という話に戻る。
プロジェクトを達成したときの肯定感は、おそらくかなりのモノで、それが今の時代にも合っているんだと思う。
しかし自分には、世界に愛されているかどうかを問う行為そのものが、とても怖いものに思える。
高校の同級生の女子がクラウドファンディングで写真集を作ろうとしている。
下着姿もある写真集らしい。現在、26%しか達成していない。
私が支援しないで誰が支援するというのだ!
これは、意義深いとかそういうのは関係なく、怖いもの見たさだなと思う。